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松山藩の名君、松平定通の行った倹約の励行

松山城

松山藩の名君、十三代目藩主、松平定通

松山藩の十三代目藩主、松平定通は、名君として有名です。そして、その定通の行った藩政改革の中では、倹約の励行が一番有名です。

定通が藩主であったのは、文化6年(1809年)7月から~天保6年(1835年)6月までの27年間ですが、その頃、松山藩の財政は窮地にあったのでした。その大きな原因となったのは、作物の凶荒の連続です。当時はその発生頻度が多く、松山藩は立ち行かなくなっていたのです。

記録によれば、作物の凶荒は、文化6年(1809年)、文化11年(1814年)、文化13年(1816年)、文政6年(1823年)、文政8年(1825年)、文政9年(1826年)、文政10年(1827年)、文政11年(1828年)、文政12年(1829年)、天保1年(1830年)、天保2年(1831年)、天保3年(1832年)、天保4年(1833年)と、定通の藩政中に13回も訪れたとあります。そして、農村の疲弊はかなり厳しくなり、松山藩の借財も45万俵に達したそうなのです。

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十六代目・松平定昭の時代

松山城

十六代目・松平定昭

慶応3年(1867年)に35歳となった松平勝成が持病の悪化により隠居し、家督相続にて十六代目の松山藩主となったのが松平定昭(さだあき)です。そして定昭はたった一年間の治封期間しかありませんでした。

実際には、定昭の後に十五代藩主であった松平勝成が再び藩主に再任され、年号も変わった明治2年(1869年)に松山藩も版籍奉還となり、実上、ここで従来の封建的な松山藩の命は消えます。そして、それ以降は、名ばかりの松山藩で、藩主は藩知事に任ぜられるという形になるのです。

この1867年~1869年の間は、江戸時代から明治時代へと、日本全体が大きな流れの中でもまれている時代でした。この3年間に松山藩にあった事を列記してみます。松山藩にとってとても苦しい歴史です。

まず、説明をする前に時代背景として、尊王派・佐幕派と、開国論・攘夷論を知ってほしいと思います。簡単に言うと。

尊王派=武力支配よりも、徳で支配する政治を尊び、天皇による政治を目指す派閥
佐幕派=武力支配をしている、幕府の政治を守ろう(補佐しよう)とする派閥

開国論=外国との交流を行ってゆくべきだという思想
攘夷論=夷人(外国人)を実力行使で排斥しようという思想

この、それぞれの派閥と思想で荒れ狂う時代に、松山藩は望むべくもなく佐幕派・開国論の方へ追いやられてしまうのです。

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十五代目・松平勝成の時代

松山城戸無門

十五代目・松平勝成

松山城復興事業の完成を見届けたのち、安政3年(1856年)に卒去した松平勝善の後を受け、松山藩主を継いだのは、松平勝成(まつだいら かつしげ)でした。この勝成の時代より、松山藩は来る明治維新へ向けての急な坂を下り始めます。

しかも、その坂道は、歴史上かってないような急な坂道です。勝成が松山藩主になってから、わずか11年後の慶応3年(1867年)には大政奉還がなされ、翌年はもう明治元年に当たります。藩主になった勝成はこのような時代の流れに気付いていたのでしょうか?

勝成が藩主になった安政3年(1856年)は、アメリカの総領事ハリスが下田に来た年です。この3年前の嘉永6年(1853)年が、教科書でも習った、黒船来航の年です。アメリカの使節ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船が、日本に来航しました。

いっぱんに黒船来航から明治元年までを幕末と言うので、松平勝成はまさに幕末における松山藩主であります。

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