松山城の築城までの経緯

松山城

加藤嘉明と伊予国との関係が始まるまで

加藤嘉明は、武将派の大名として戦績を上げ、松山城の築城を開始するまで、一気に階段を駆け上がりました。現在では想像つかないのですが、その若さと、出世の速さを比べてみると、意外に年齢が若いのにびっくりします。

では、ちょっと、加藤嘉明の松山城築城前からの出世のスピードを見てみましょう。まず、大きな出世の始まりは、秀吉の配下での文禄の役の戦功によるものでした。これは、秀吉が朝鮮へ出兵した文禄元年(1592年)の出来事ですが、嘉明が29歳の時の出来事です。

この戦いの戦功により、嘉明は、伊予国正木(松前)城主6万石に封ぜられたのでした。そして、文禄4年(1595年)32歳の時に、嘉明は家臣をつれて、淡路国志智城から伊予国正木(松前)城に入城しました。これが、伊予国と嘉明との関係の始まりでした。
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松山城の完成、改築そして炎上と復興の歴史(2/2)

松山城

松山城天守閣の焼失その後

松山城の落成後、157年後の天明4年(1784年)元旦の真夜中に、落雷で本丸を焼失した松山城ですが、すぐに、城郭復興の計画が幕府より許可されたにも関わらず、その頃より松山藩の財政が窮地に陥ったため、松山城はなかなか再建されません。

そして、やっと松山城の天守閣の再建に着手したのは、火事より36年後の、文政3年(1820年)でした。これは、松山藩「中興の祖」としても仰がれた名君、十三代目藩主の松平定通の時です。松平定通は倹約の励行などで、松山藩の財政を立て直したのです。

しかし、財政を立て直して、やっと始まった松山城の復興計画は、また頓挫します。それは、松山城再興に着手して、15年後の天保6年(1835年)に、松平定通が逝去したことと、その後すぐに、本丸復興中の作業場が失火したことなどによります。そのような事があったため、松山城郭の復興工事は、また一旦頓挫したのでした。
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松山城の完成、改築そして炎上と復興の歴史(1/2)

松山城

松山城の完成

慶長7年(1602年)に加藤嘉明により築城を始めた松山城ですが、なんと完成するまでに約25年を要する大工事でした。完成したのは、寛永4年(1627年)です。その間、加藤嘉明は心血を注いで築城を行います。しかし、加藤嘉明は、その落成式典をする年の2月、式典の直前に出羽国(今の山形県)に転封(てんぽう)されたのです。

伊予松山藩は20万石、出羽国の会津藩は40万石、確かに倍に加増したため、今で言えば、栄転のようなものかもしれませんが、加藤嘉明の気持ちはいかがなものだったのでしょうか。実際には自分が築き上げた松山城と完成直前に引き離され、温暖な松山から、寒冷地である会津へ行かされたのは、本意ではなかったという話が主流です。

この話には、裏話もあって、それは、当時、加藤嘉明と仲の悪かった藤堂高虎が、自分に会津藩へとの話が合ったのを上手に断って加藤嘉明に押し付けたという話です。すでに65歳になっていた加藤嘉明にとっては、つらい国替(くにがえ)だったと思います。

このように、松山城の完成時には、城主が突然交代するという一波乱があったのですが、松山城は寛永4年(1627年)に無事完成したのでした。
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