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松山城の完成、改築そして炎上と復興の歴史(2/2)

松山城

松山城天守閣の焼失その後

松山城の落成後、157年後の天明4年(1784年)元旦の真夜中に、落雷で本丸を焼失した松山城ですが、すぐに、城郭復興の計画が幕府より許可されたにも関わらず、その頃より松山藩の財政が窮地に陥ったため、松山城はなかなか再建されません。

そして、やっと松山城の天守閣の再建に着手したのは、火事より36年後の、文政3年(1820年)でした。これは、松山藩「中興の祖」としても仰がれた名君、十三代目藩主の松平定通の時です。松平定通は倹約の励行などで、松山藩の財政を立て直したのです。

しかし、財政を立て直して、やっと始まった松山城の復興計画は、また頓挫します。それは、松山城再興に着手して、15年後の天保6年(1835年)に、松平定通が逝去したことと、その後すぐに、本丸復興中の作業場が失火したことなどによります。そのような事があったため、松山城郭の復興工事は、また一旦頓挫したのでした。

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