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十四代目・松平勝善の時代

松山城天守閣の写真です。クリックすると拡大します。

十四代目・松平定穀

天保6年(1835年)6月に、松平定通が逝去したため、後を継いだのは、松平定穀(さだよし)であります。松平定穀はその後、35~36歳のころに勝善と改名しますので、松平勝善の名前の方が有名かもしれません。

実は、この勝善も養嗣子(養子)でありました。しかも、当時の薩摩藩藩主の十一男として誕生していたのでした。資料によると、松平隠岐守家と松平薩摩守家とは初代定行公以来、縁戚家(親戚)であったようです。

勝善が藩主になったのは18歳の時です。今の18歳といえば、まだまだ未成年ですが、当時はどうだったのでしょうか?。この頃の他の藩の跡継ぎの年齢をみても、20歳以下は多いようです。なんか不思議な感覚です。

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十三代目・松平定通の時代

松山城本丸と二之丸の写真です。クリックすると拡大します。

十三代目藩主、松平定通

文化6年(1809年)7月に松平定則が逝去したため、弟の勝丸(松平定通、さだみち)が、その後を継承しましたが、この時、年齢は僅か6歳でした。若くして松山藩の藩政を引き継いだ定通ですが、この後、27年間藩政を行います。

この、松平定通の行った藩政が素晴らしく、政権の安定化や文化面の発展のみならず殖産興業や倹約厳行などをすすめ、以前より続いていた松山藩の財政危機からの回復をも達成し、松山藩「中興の祖」としても仰がれました。

後に、この藩政時代は「爽粛院時代」などとも呼ばれており、松山藩の名君として名前を残しています。これは、定通が幼いころから叔父であり前老中兼将軍補佐であった定信による撫育を受けた影響であろうと言われています。

松平定信と言えば、一時は将軍候補にもなった定通の叔父で、将軍職は逃しましたが、老中となって行った寛政の大改革が有名です。

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十二代目・松平定則の時代

松山城、小天守の写真です。クリックすると拡大します。

十二代目藩主、松平定則

文化元年(1804年)、松平定国の後を継ぎ、十二代目藩主になったのは、定国の嫡男(ちゃくなん)である松平定則でした。

実は、この定則には、兄がいたのですが、夭折(ようせつ:年が若くて死ぬこと。)してしまったため、定則が二男であるにも関わらず、松平家の家督を相続するよう事になったようです。

定則が藩主時代の行いとしては、伊予郡松前町浜の付近に、港を新しく造ったとされています。伊予郡松前町は、松山城が出来る以前に、松山地方を治めるための「松前城」があった場所です。

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