十六代目・松平定昭の時代

松山城

十六代目・松平定昭

慶応3年(1867年)に35歳となった松平勝成が持病の悪化により隠居し、家督相続にて十六代目の松山藩主となったのが松平定昭(さだあき)です。そして定昭はたった一年間の治封期間しかありませんでした。

実際には、定昭の後に十五代藩主であった松平勝成が再び藩主に再任され、年号も変わった明治2年(1869年)に松山藩も版籍奉還となり、実上、ここで従来の封建的な松山藩の命は消えます。そして、それ以降は、名ばかりの松山藩で、藩主は藩知事に任ぜられるという形になるのです。

この1867年~1869年の間は、江戸時代から明治時代へと、日本全体が大きな流れの中でもまれている時代でした。この3年間に松山藩にあった事を列記してみます。松山藩にとってとても苦しい歴史です。

まず、説明をする前に時代背景として、尊王派・佐幕派と、開国論・攘夷論を知ってほしいと思います。簡単に言うと。

尊王派=武力支配よりも、徳で支配する政治を尊び、天皇による政治を目指す派閥
佐幕派=武力支配をしている、幕府の政治を守ろう(補佐しよう)とする派閥

開国論=外国との交流を行ってゆくべきだという思想
攘夷論=夷人(外国人)を実力行使で排斥しようという思想

この、それぞれの派閥と思想で荒れ狂う時代に、松山藩は望むべくもなく佐幕派・開国論の方へ追いやられてしまうのです。

 

松山城

松平定昭が松山藩主の1年間

では、松山藩の苦しい3年間を説明します。

慶応3年(1867年)、江戸幕府が力を失いつつある中で、十六代目の松山藩主となった松平定昭は、江戸幕府の老中職に任じられてしまいます。これで、松山藩は望むべくもなく佐幕派・開国論の先方に立たされてしまうのです。そして、老中就任期間のわずか1ヶ月足らずの間に、大政奉還となり、江戸幕府は朝廷に政権を奉還します。

そして、この時に老中職であったことや、時の江戸幕府最後の第15代将軍である徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)と行動を共にしていたことなどが重なり、松山藩も朝敵の汚名を受けてしまったのでした。そして、そのような大事に重臣たちのすすめに従い定昭は老中職を退き松山藩へと帰ってきたのでした。

この時に、松山藩内では、前松山藩主の勝成を奉じて、朝廷に謝罪するべきだという派閥と、定昭を奉じて徳川家に従い薩長に抵抗すべきだという2派に分裂しました。そして明治元年(1868年)1月22日、藩主・家老などで密議を行い、定昭は5万石の封土を朝廷に返納し、陳謝して定昭は謹慎とする事を決めたのでした。

そして、同1月の28日、当時朝廷側に組みしていた土佐藩が兵を率いて松山城および領内を占領します。これが不幸中の幸いでした。土佐藩は比較的松山藩にも同情的であったので、領内で理不尽な行いをしませんでした。土佐藩が入ったすぐ後に、松山藩と長州征伐で一戦を交えていた長州藩が松山に来着しましたが、先に土佐藩が入っているため手が出せませんでした。

その後、定昭が謹慎するのと交代に、前松山藩主の勝成が再任の命を受けて、再度、松山藩主となったのでした。この折、新政府より15万両の上納も命じられています。そして、明治2年(1869年)2月8日に松山藩も、藩主の勝成が版籍奉還を行い、新たに、松山に松山藩を置きました。そして、勝成が一地方官としての最初の藩知事に任命されのでした。

 

松山城

一つの時代を終えた、封建的な政治下での松山城

ここで、封建的な政治下での松山城は、一つの時代を終えます。今が2012年ですから、約140~150年前の出来事ですね。十六代目・松平定昭の時代は、1年にも満たない激動の藩主時代でした。そして、その後を引き継いだ勝成も、言わば敗戦処理投手みたいな感があります。

しかし、封建的色合いを無くしても松山城はそこにあって松山藩をみています。明治政府も落ち着いてきた明治4年(1871年)1月には、再度、定昭が、あらためて松山藩知事に任命されました。そして、同年7月4日には、廃藩置県があり、松山藩は無くなり松山県となります。

松山城も松山県時代へ突入です。これで、一応、松山藩主の歴史の記事は一段落します。今後は、このカテゴリでは、藩主毎のさらに詳しい情報なども書いてゆきます。それでは・・・。

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