十四代目・松平勝善の時代

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十四代目・松平定穀

天保6年(1835年)6月に、松平定通が逝去したため、後を継いだのは、松平定穀(さだよし)であります。松平定穀はその後、35~36歳のころに勝善と改名しますので、松平勝善の名前の方が有名かもしれません。

実は、この勝善も養嗣子(養子)でありました。しかも、当時の薩摩藩藩主の十一男として誕生していたのでした。資料によると、松平隠岐守家と松平薩摩守家とは初代定行公以来、縁戚家(親戚)であったようです。

勝善が藩主になったのは18歳の時です。今の18歳といえば、まだまだ未成年ですが、当時はどうだったのでしょうか?。この頃の他の藩の跡継ぎの年齢をみても、20歳以下は多いようです。なんか不思議な感覚です。

松山城本丸本壇の写真です。クリックすると拡大します。

 

松平勝善の大仕事、松山城復興事業の完成

勝善の大仕事といえば、なんと言っても、松山城復興事業の完成です。天明4年(1784年)元旦の真夜中に天守閣に落雷があり、本丸の主要部を焼失して、37年もの歳月をすぎて後、勝善の父である定通がやっと始めた松山城郭の復興計画を、勝善が完成させるのです。

その復興事業の様子が、「御本壇御普請被仰出候ニ付荒々日記」という書物に残っているそうです。これにはすごく関心があります。誰か歴史好きな小説家でもいれば、この書物をもとに、天明4年(1784年)元旦の火事から~松山城郭の復興完成までを、松山の歴史を交えた小説にして、その後・・・映画にでもしてほしいものです。

かすかな、期待なのですが・・・、「坂の上の城」とか・・・。誰か書いてくれませんか?

松山城の写真です。クリックすると拡大します。

 

松山城復興事業

松山城復興事業は、勝善の指示のもと、弘化4年(1847年)11月頃より本格的になったようです。小普請奉行の小川九十郎という者を御作業事奉行に任じ現地で城郭復興の指揮にあたらせたそうです。そのほかにも細かな記録も残っているようです。

大工の棟梁は又左衛門(姓は坂本)、久左衛門(姓は田内)らであったそうで、弘化4年(1847年)12月4日に九十郎らは城郭の礎地を綿密に調査し、8日には家老の服部玄蕃も参加して天守閣の位置を検討し、まず、天守閣・小天守閣をはじめとする本丸の設計に着手したそうです。

その後、6年を経て嘉永5年(1852年)に城郭の全部が完成します。そして、落成式典は、翌々年の安政元年(1854年)2月8日に盛大に催されたようであります。天明4年(1784年)の焼失からこの時まで、実に71年を経過していました。

そして、この松山城復興事業の完成を見届けて、安政3年(1856年)に、天然痘が原因で松平勝善は卒去しました。享年40歳でした。

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