十三代目・松平定通の時代

松山城本丸と二之丸の写真です。クリックすると拡大します。

十三代目藩主、松平定通

文化6年(1809年)7月に松平定則が逝去したため、弟の勝丸(松平定通、さだみち)が、その後を継承しましたが、この時、年齢は僅か6歳でした。若くして松山藩の藩政を引き継いだ定通ですが、この後、27年間藩政を行います。

この、松平定通の行った藩政が素晴らしく、政権の安定化や文化面の発展のみならず殖産興業や倹約厳行などをすすめ、以前より続いていた松山藩の財政危機からの回復をも達成し、松山藩「中興の祖」としても仰がれました。

後に、この藩政時代は「爽粛院時代」などとも呼ばれており、松山藩の名君として名前を残しています。これは、定通が幼いころから叔父であり前老中兼将軍補佐であった定信による撫育を受けた影響であろうと言われています。

松平定信と言えば、一時は将軍候補にもなった定通の叔父で、将軍職は逃しましたが、老中となって行った寛政の大改革が有名です。

 

大手門跡の写真です。クリックすると拡大します。

松平定通の行った倹約の励行

定通の藩政改革の第一に挙げられるのは、倹約の励行です。当時、毎年のように凶作が続き、農民の疲弊も激しく、松山藩の借財(借金)も、45万俵にも達する窮状でした。定通はこの危機を脱するため家臣に給与される俸禄の引き下げを断行しました。

それでも間に合わなくなると、定通の節約令は、藩の諸雑費・神社仏閣の初穂料・祈祷料のような微細なものまでにも及びました。また、上方(大阪や京都方面)からの高利子の借財を、松山城下の町人たちに肩代わりさせたりもしました。

そのうえ、町人や、豪農層にたびたび御用銀米(税金みたいな感じ)の上納まで強要し、どうにか財政上の破綻を切り抜けました。

 

登り石垣の写真です。クリックすると拡大します。

松平定通の行った殖産興業の奨励など

定通は、節約のみならず、殖産興業にも着手します。当時、伊予結城(織物)が好評を得ていたので、保護金を貸与してその事業を援助しました。これは現代まで引き継がれ、伊予絣(いよかすり)として名を残しています。

また、社倉法を制定し、備荒貯蓄を実施しました。これは、一家にあたり1日1文ずつを納めさせ、凶荒に備えるというものです。これにより、かなりの積立金も確保しました。そのほかにも、文武の奨励や藩学明教館なども創設したりもしました。

これらの行いにより、松山藩は、政権の安定化や文化面の発展なども行いました。

 

松山城大天守の写真です。クリックすると拡大します。

松山城郭の復興計画

定通は、父の意志をついで、ついに、松山城郭の復興計画を行います。松山藩の財政危機を脱し、焼失した天守閣の再建が可能になったことから、文政3年(1820年)4月に普請奉行を決め、念願の松山城復興工事に着手します。

この時、あたかも、天明4年の本丸焼失後、既に37年もの歳月を経過していました。やっと、松山城の復興が始まりました。しかし、期待された城郭の復興事業は、再興に着手した16年後の天保6年に、また頓挫してしまいます。

これは、天保6年(1835年)6月に、松平定通が逝去したためであります。その後、追い打ちをかけるように、復興作業中の本丸作業場での失火の厄などもあり、定通が始めた松山城復興計画は、成果なく終わってしまいました。

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