松山藩の名君、松平定通の行った倹約の励行

松山城

松山藩の名君、十三代目藩主、松平定通

松山藩の十三代目藩主、松平定通は、名君として有名です。そして、その定通の行った藩政改革の中では、倹約の励行が一番有名です。

定通が藩主であったのは、文化6年(1809年)7月から~天保6年(1835年)6月までの27年間ですが、その頃、松山藩の財政は窮地にあったのでした。その大きな原因となったのは、作物の凶荒の連続です。当時はその発生頻度が多く、松山藩は立ち行かなくなっていたのです。

記録によれば、作物の凶荒は、文化6年(1809年)、文化11年(1814年)、文化13年(1816年)、文政6年(1823年)、文政8年(1825年)、文政9年(1826年)、文政10年(1827年)、文政11年(1828年)、文政12年(1829年)、天保1年(1830年)、天保2年(1831年)、天保3年(1832年)、天保4年(1833年)と、定通の藩政中に13回も訪れたとあります。そして、農村の疲弊はかなり厳しくなり、松山藩の借財も45万俵に達したそうなのです。

 

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作物の凶荒続きで、松山藩の財政が危機

ところで、当時の45万俵とは、現代のお金にしていくらくらいだったのかを調べてみました。いろいろな説があるのですが、ここでは、江戸中期の換算率を利用すると、石高からいえば、1石=米2.5俵=金1両という説が有力です。

それによれば、45万俵は18万両ということになります。そして、当時は、金1両=約12万円程度であったという有力な説で計算すれば、現在の金額で216億円程度という事になります。

現在でいえば、松山市の平成24年度の一般会計は、1,700億円ですから、金額だけで見れば、現在の一般会計の13%くらいに感じますが、当時はお金の価値が今と全く違います。

たとえば、当時は、松山藩は石高が20万石でしたから、それからみれば、20万石=50万俵=20万両です。先程の計算で行けば年間の予算(石高)は、240億円くらいという事になります。そう考えれば、松山藩の借財45万俵(216億円)というのは、松山藩のほぼ年間予算(240億円)に近いものだったのです。

 

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作物の凶荒続きで、松山藩の財政が危機

現代であれば、債権などの形で後の世代が支払う仕組みもありますが、当時はそんな発想があったとは思えません。そうであれば、年間予算に匹敵するほどの借財というのは、大変な問題だったのではないでしょうか。

そして、この借財を解消するために、定通は厳重な質素倹約を藩民全員に励行させます。

まず、行ったのは、文化7年(1810年)の6割渡しです。これは藩の家臣の給与を6割しか払わないというものです。そして、文化9年(1812年)と文政1年(1818年)には、7割渡し、文政2年(1819年)には5割渡し、文政11年(1828年)には6割渡し、文政12年(1829年)以降は7割渡しなどです。

 

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作物の凶荒続きで、松山藩の財政が危機

そして、さらに凶荒が続いたため、文政6年(1823年)と天保4年(1833年)には、養っている人数分しか給料のもらえない、人数扶持(にんずうぶち)の実施にまで至りました。

そして、その倹約は家臣の給与に留まらず、藩の諸経費、神社仏閣の初穂料や祈祷料にまで及びました。また、藩が上方商人から借り高利子の借金は、松山城下の町人たちに肩替りさせ、松山藩の財政の負担の軽減も図りました。そのうえ、町人や豪農層にたびたび御用米の上納を強要するなどして、ついには松山藩の財政上の破綻を切り抜けたのでした。

なんと、松山藩自らの家臣の給料を下げた後、松山城下の安定層や神社仏閣にまでわたる質素倹約の励行です。本当に大したものです。今の日本政府にやってほしいような節約内容ですね。

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