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十二代目・松平定則の時代

松山城、小天守の写真です。クリックすると拡大します。

十二代目藩主、松平定則

文化元年(1804年)、松平定国の後を継ぎ、十二代目藩主になったのは、定国の嫡男(ちゃくなん)である松平定則でした。

実は、この定則には、兄がいたのですが、夭折(ようせつ:年が若くて死ぬこと。)してしまったため、定則が二男であるにも関わらず、松平家の家督を相続するよう事になったようです。

定則が藩主時代の行いとしては、伊予郡松前町浜の付近に、港を新しく造ったとされています。伊予郡松前町は、松山城が出来る以前に、松山地方を治めるための「松前城」があった場所です。

 

松山城、天守閣の写真です。クリックすると拡大します。

文化の興隆に貢献した松平定則

松平定則が統治した当時の松山藩は、父、松平定国の時代から続く文化の興隆期の真っ只中です。定国は、その流れの中、、松山二番町横町に初めて藩校である「興徳館」を設立します。そして、杉山熊台(ゆうだい)を教授として藩士の指導に当たらせるなど、松山藩の文化の興隆に貢献しました。

この興徳館は、後々生徒数が増え、文政4年(1821年)に修来館と名を改めて三の丸東門付近に新たに建てられます。さらに、文政11年(1828年)には、11代・定通が修来館を藩校・明教館として日下伯厳(くさかはくがん)や高橋復斎(ふくさい)を登用して開講します。

「興徳館」の設立が、松山藩の文化の興隆の「礎」(いしずえ)となったようです。

 

松山城、本丸本壇の写真です。クリックすると拡大します。

松山法龍寺の寺格を高めた松平定則

また、寺格を高める働きかけにも熱心で、文化5年(1808年)には、菩提寺のひとつである松山法龍寺の寺格を高めました。

このように、いろいろな松山の文化興隆に貢献した定則ですが、文化6年(1809年)7月3日に、病床に伏したため、弟の勝丸(後の松平定通)を養嗣とし、同5日に江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去しました。

この折、松平定則は享年20(17歳)です、わずか6年間という短い藩主期間でした。





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