十一代目・松平定国の時代

松山城、本丸本壇の写真です。クリックすると拡大します。

十一代目藩主、松平定国

十代目藩主松平定静が、安永8年(1779年)に卒去した後、十一代目藩主となったのは、松平定国でした。

松平定国も養嗣子でしたが、定国は、松山藩の本家筋ではありませんでした。

定国は、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の次男として生まれた田安宗武(たやす・むねたけ)の六男でした。

つまり、徳川吉宗の孫にあたります。定国という名前は、養父となる松平定静が与えた名前でした。

実は定国のすぐ下の弟(田安宗武の七男)が、一時期は江戸幕府第11代将軍候補でもあった松平定信でした。

松平定信と言えば、将軍職は逃しましたが、老中となって行った寛政の大改革が有名です。

 

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松山城に雷の大事件

定国が松山藩主時代に起こった出来事の中に、天守閣への落雷があります。

天明4年(1784年)元旦の真夜中に天守閣に落雷があり、そのために本丸の主要部を焼失してしまいました。

この火災が鎮火したのは翌朝であったそうです。

定国は、直ちに急使を江戸に送り、天守閣が焼失したことを幕府に報告しました。

幕府よりは、当年、参勤交代の年であったため、その時期を9月に延期してよい旨の連絡が」あったようです。

また、焼失した城郭復興の計画も幕府請願し、同年6月29日には、幕府より、許可を得ました。

この時の再建の方針は、もとの形態に復興することのようでした。

 

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松山藩内での俳諧復興運動

また、この時期に、松山藩内には、栗田樗堂(くりたちょどう)という全国的に有名な俳人がいました。

当時、全国的に沸き起こった「芭蕉に帰れ」という俳諧復興運動の流れに乗り、栗田樗堂一派の活動で、松山の俳壇は黄金時代を迎えます。

樗堂の著名さを物語る話として、有名な小林一茶が、 樗堂を訪ねて二度も松山を訪れたという話があります。

そのような時代の中、文化元年(1804年)6月14日、定国は、脚気により体調すぐれずとの旨が、嫡男の立丸(のちの松平定則)より幕府に届けられました。

そして、同日、立丸に家督を譲る旨の遺言を認め、同月16日に江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去したとされていました。

しかし、後になり、実は6月11日に卒していたたという話が出てきました、享年48歳でした。

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