十代目・松平定静の時代

松山城、天守閣の写真です。クリックすると拡大します。

十代目藩主、松平定静

明和2年(1765年)に松平定喬の跡を継ぎ、松山藩の10代目藩主になったのは、松平定静(まつだいら さだきよ)です。

この定静は、実は松山藩の7代目藩主、松平定英の弟の息子になります。

つまり、本家筋ではないのですが、本家の、松山藩9代目藩主、定功公が危篤となったため、定功公の願いとして、定静を本家の養子として迎え入れたのです。

定功公の願いのとおり松山藩15万石の相続を引き継いだのが、定静です。

こうして、本家によって、松山藩の藩主が受け継がれてゆくのです。

この、「本家」という発想は、この時代はものすごく強いです。

今の時代は、かなり、薄くなってきたのでしょうが、つい最近まで、「本家」という言葉はよく耳にしていました。

 

松山城、本丸本壇内門の写真です。クリックすると拡大します。

松平定静時代の松山藩の文化

この時代の松山藩は、儒教(孔子を始祖とする思考・信仰の体系)の発達や文運(文化・文明が発展しようとする気運)の高まりをみせました。

それらの気運の高まりと共に、たくさんの学者や文人たちが生まれ、その影響は松山藩全域に及び、同様の学問の全盛期を迎えました。

松山藩では、河端五雲らの俳人の活動が有名で、低俗化した俳壇(俳人の社会。俳人仲間の世界)を再興しよという動きなどが起こったようです。

このような文化的な風潮は、寛政異学の禁(寛政2年(1790年)5月、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ用という意図などにより幕府が行った学問の統制)まで続いたそうです。

 

松山城、本丸本壇玄関多聞の写真です。クリックすると拡大します。

松山の大火と、義農作兵衛の墓碑を建立

松山藩10代目藩主、松平定静の時代には、以下のようなこともありました。

明和7年(1770年)には、松山の大火がありました。

明和7年12月26日夜、山手代町(今の千舟町)の足軽の家から出火し、新立まで類焼をしました。

そして、同じ日に北清水町でも火事があり、鉄砲屋町の東詰まで延焼しました。

これらの火災は、松山にとって未曾有の大火で、武家屋敷301軒、商屋750軒、寺院2か所が災害を受けました。

安永6年(1777年)には、伊予郡筒井村の義農作兵衛の墓碑を建立しました。

義農作兵衛は、享保の大飢饉で麦種を枕にして餓死したという、愛媛県では有名な話の主人公です。

10代目藩主、定静の時代に、義農作兵衛の墓碑を建立しました。
           
そして、15年間、10代目松山藩藩主を務めた松平定静は、安永8年(1779年)7月10日に、にわかに発病し、同月14日、江戸松山藩邸愛宕下上屋敷にて卒去しました。

享年51歳でした。

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