八代目、松平定喬の歴史
八代目藩主、松平定喬
享保18年(1734年)5月に、7代目松山藩主松平定英の後、家督を継承し松山藩主になったのは、長男であった松平定喬(さだたか)でした。
しかし、この藩主交代の直前まで、父である松平定英は幕府より差扣(さしひかえ)を命じられていました。
当時の差扣とは、今でいう自宅謹慎のようなものです。
松山藩主ともあろう定英がそのような処遇を受けたのは、享保17年(1733)の享保の大飢饉において、松山藩内で甚大な被害が発生したのに、その対処がうまくいかなかった責任を取らされたからです。
享保18年(1734年)の4月に、定英が重病になったので、差扣はその折に免ぜられましたが、その後すぐ、5月には江戸藩邸で逝去してしまいました。
そこで、嗣子(しし:あとつぎ)である松平定喬が、家督を継承し松山藩主になったのです。
松山藩の大きな政権変動
藩主が、定喬に代わった後も、松山藩内ではいろいろな騒動が起こります。
大きな騒動のひとつとしては、享保18年(1734年)に、松山藩の政権に大きな変動があったことです。
これは、享保17年(1733)の享保の大飢饉において、迅速な対処が出来なかった責任を、当時の松山藩の家老職(重役職)が背負う事となり、藩政の不始末の責任を取らされる形で、当時の家老職や関係する目付達が、閉門を命ぜられたり、切腹を命じられたりしました。
この政変には、松山藩内の派閥争いも加わって、政権争奪の色合いが濃いものとなりました。
久万山農民騒動
松平定喬が藩主時代のもう一つの騒動を挙げると、久万山農民騒動があげられます。
これは、藩主交代直後の政変後、7年後の寛保元年(1741)に久万山地区(今の久万高原町あたり)で起こった騒動です。
当時において、有名な「百姓一揆」でした。
しかし、その形態は、逃散(ちょうさん)と言われるもので、逃亡という方法を取るものでした。
当時の松山藩の久万山地区に対する政策があまり厳しいものであったため、久万山地区の農民たち約3,000人弱が郷里をすてて逃亡を企て、隣の藩である、大洲藩へ逃げ込んでしまったのでした。
そして、農民たちは大洲藩主に状況を訴え、改善されないうちは帰村できない旨を主張し、松山藩との交渉にも応じませんでした。
しかし、久万山の大宝寺の住職である斉秀を通じた、根気ある松山藩の交渉の末、どうにか事態は収束を迎えました。
この時交わされた申渡し文書の記録は、いまでも残っているようであります。
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2012/01/15 | コメント/トラックバック(0) |
カテゴリー:八代目、松平定喬
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