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七代目、松平定英の歴史

東雲神社の写真です。クリックすると拡大します。

松平定英時代に始まった松山藩の不幸な時代

享保5年(1720)10月に定直の後を継承したのは、三男の松平定英でした。

長い長い定直時代に藩政の経済危機を脱し、さらに文化も充実し、繁栄が続きそうな松山藩でしたが、松平定英が藩主になってすぐに松山藩最大の危機が始まります。

まずは、定英が藩主となった翌年の享保5年(1721)7月に石手川が大雨による大洪水のために氾濫を起こします。

このときの災害はひどいもので、流出家屋889軒・死者77人・山崩れ2万9,220か所という大災害でした。

この頃より石手川の氾濫が度々あり、その対応策も追いつかず、どんどんと藩政に暗雲が立ち込めてきます。

松山城本丸本壇裏側の写真です。クリックすると拡大します。

松山藩に享保の大飢饉

松平定英が松山藩主時代は、本当に苦しい藩政が続きました。

農民たちを使い、石手川の氾濫対策として今日あるような立派な堤防が出来上がりましたが、そのためにはかなりの費用を費やしました。

そして、その石手川の大改修と相前後するように、今度は、松山藩に享保の大飢饉が襲い掛かります。

享保17年(1733)に松山藩では、天明・天保時代にあったものとともに三大飢饉と呼ばれる災害に襲われます。

享保の大飢饉は、主に西海(九州)・山陽(山陽道)・南海(四国と和歌山)あたりを中心におこった災害で、歴史的な凶作となり、その取れ高は例年の半分以下の所も多かったようです。

その災害の被害といえば膨大で、全国の被災者数は264万人を超え、なんと餓死者が12,072名となっています。

日本で餓死者が1万人以上など、今では全く想像できません。

松山城本丸、太鼓櫓の写真です。クリックすると拡大します。

松山藩での享保の大飢饉の状況

この災害(享保の大飢饉)時、松山地方では、5月下旬から天候が不順となり、霧雨が続きました。

そのため、重信川を始め、諸川が増水し、ところどころでは、氾濫も起こっているところもありました。

雨天はさらに7月下旬まで続き、わずかの晴れ間も見せなかったので、稲作は腐敗して枯死だらけの状況でした。

それらの凶作の上に、浮塵子(うんか)の発生による被害でした。農民たちは死力を尽くして防ごうとしたがだめでした。

そして、その浮塵子が、稲作ばかりでなく、雑草まで食いつくしました。

松山藩領の中で最も被害が大きかったのは伊予郡筒井村(今の松前町)で、平野には、一草もなかったそうです。

この折、松山藩領では恐ろしい数の餓死者が発生しました。

男子2,213人・女子1,276人・馬1,403頭・牛1,694頭となっています・・・すさまじい被害です。

前の藩主の時代とは正反対の、不幸な松山藩の時代が始まりました。





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