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六代目、松平定直の歴史

松山城大天守の写真です。クリックすると拡大します。

松山藩を一番長く治めた松平定直

延宝2年(1674年)正月21日に、江戸において大病に陥り、同年2月12日、江戸松山藩邸三田中屋敷にて卒去した松平定長の後を受けたのは、今治藩主・松平定時の嫡男の鍋之助(のちの松平定直)でした。

松平定直は、宗家(一門・一族の中心となる家柄)である松平定長家に、養嗣として入ったのでした。

この定直は、延宝時代から江戸文化の降盛期の元禄時代を経て、享保の初期に至る47年間もの間、松山藩主であり続けました。

松山藩主歴代で、最も長く藩政をつかさどる事になるのです。

 

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松平定直の松山藩農政の大改革

この時期の松山藩にとって最も大きな出来事は、藩内で農政の大改革が行われたことです。

実は、定直が藩主になった当時は、松山藩は当時の藩の年間歳入の1年分にも相当するほどの貸付米(借金みたいなもの)などがある状態となっていました。

そこで、定直は、松山藩のこの窮地を脱するために高内又七を奉行に任じて、財政の再建を行わせました。

ここで、高内又七は、農政に関わる「新令二十五条」なる土地割当制度や、今でいう税制改革のような事をバランス良く実施し、それが功を奏して、難の財政は元禄時代(1688~)の初期までには、貸付米などの返済を完了したのです。

それらの事を称して、農政の大改革と言われています。

 

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松山藩の文化振興を行った松平定直、赤穂浪士とも関わる

定直は、率先して学問を愛好した藩主であります。そのためか、この時代は松山を中心とする地方文化の勃興期にあたり、あらゆる部門で、目覚ましい発展がみられました。

定直は、当時の儒学・国学を勃興し、儒教の普及を図ったり朱子学から出た、崎門学の学問を松山へ招き入れたりもします。

あと、あのテレビで有名な「赤穂浪士」を10名、当時、江戸の松山藩邸で受け入れていたのも有名な話です。

時は元徳15年(1702)12月14日に、浅野家の仇として、吉良家義央を襲撃したのは有名です。

松山藩では、浪士たちに同情の念を持して厚遇したようですが、翌年の元徳16年(1703)2月に、浪士達は幕府の命令により自刃させられました。

そして、この折の様子などを綿密に書き留めた史料も残っているようです。





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