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五代目・松平定長の歴史

松山城二之丸多門(入口)の写真です。クリックすると拡大します。

五代目・松平定長の歴史

五代目・松平定長は、寛分2年(1662)1月22日に江戸三田の中屋敷で落馬の為に急逝してしまった松平定頼の家督を相続しました。

松平定長の生まれたのは寛永17年(1640)ですから、わずか22歳で松山藩主になったことになります。

若いような気がしますが、江戸時代の平均寿命はかなり短いものでしたから、昔は20歳でも十分に一人前だったみたいです。

この当時の記事を書いていて思うのですが、若い時代(20歳~30歳くらい)で物事を成した人が多いのに驚きます。

しかし、江戸初期の平均寿命は30歳くらいと推測されていますから、20歳でも人生の2/3を終えている事になります。

平均寿命は、一般的に生まれたときの平均余命のことを言いますが、 日本人の出生時平均余命が50歳を越えたのは昭和22年(1947)と、ごく最近です。

今では、平均寿命が30歳なんて考えにくいですね。

 

松山城二之丸、大井戸の写真です。クリックすると拡大します。

松平定長の松山藩治封の歴史

松平定長は、寛文2年(1662)から延宝2年(1674)の間、13年間、松山藩を治封します。

その間に、定長が行った藩政として有名なのは、今の三津浜に魚市場を開いた事と、伊佐爾波神社の社殿改築です。

魚市場については、寛文3年(1663)に、天野作右衛門・天野十右衛門・唐松屋九朗兵衛らに、三津で肴問屋の事務を始めさせます。

その後、三津で魚類の取引が盛んになってきますが、そのうち、漁夫と魚商の間でたびたび売り買いのトラブルが発生したため、三津に魚市を設置し寛文4年(1664)には、紛争を防ぐため、売り買い時に「隠し言葉」(値段が買う人以外にわからないようにするため)を使用するように規定したそうです。

 

松山城二之丸より見た、松山城の写真です。クリックすると拡大します。

伊佐爾波神社の社殿改築の歴史

松平定長は、寛文4年(1664)に、道後湯月宮(現・伊佐爾波神社)や味酒明神(現・阿沼美神社)などを改築・再興するなど祭祀施設の興隆にも尽くします。

伊佐爾波神社については、石清水八幡宮を模してつくられ、完成当時は柱に金箔をし、銀製の樋を使用したりと、かなり豪華絢爛な建物で、寛文7年(1667)に行われた遷宮式は、かなり盛大なものだったようです。

魚市場を開いたり、伊佐爾波神社の社殿改築をしたりと、藩政に関わった定長ですが、多趣味でもあったようです。

連歌にも長じており、多くの名作を残しました。また、弓術の名手でもあり寛文4年(1664)には、将軍・徳川家綱の前で弓射を披露したそうです。

そうした定長ですが、延宝2年(1674年)正月21日に、江戸において大病に陥り、今治藩主・松平定時の嫡男の鍋之助(のちの松平定直)を養嗣にむかえた後、同年2月12日、江戸松山藩邸三田中屋敷にて卒去しました。享年35歳です。

いろいろと藩政を行った松平定長でしたが、ほとんどを江戸で過ごし、松山入りは父定頼と同じくわずか3回でありました。





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