四代目・松平定頼の歴史
四代目藩主・松平定頼の歴史
松平定頼は万冶元年(1658)に、父の定行より家督を譲リ受けました。
しかし、その松山城主としての治封期間は短いものとなってしまいます。
松山治世後わずか5年で、寛分2年(1662)1月22日に江戸三田の中屋敷で落馬の為に急逝してしまいました。
急遽、定頼の二男である定長が家督を相続して、守成(あとを受け継いで、その事業を固め守ること)の業をなしとげました。
松平定頼の歴史(子だくさん)
急逝した松平定頼ですが、当時らしく、子だくさんでありました。
家系的にみると、定頼の正室は京極高広の娘で、子供は、松平定盛(長男)、松平定長(次男)、松平定重(三男)、真修院(島津綱久正室)、仙寿院(山内豊昌正室)、娘(黒田之勝正室)、娘(酒井忠直正室)、正寿院(阿部定高正室)の8人もいました。
今では考えにくいのですが、当時から昭和の始めくらいまでは、子供が4~5人くらいが普通だったようです。
定頼は、万治元年(1658年)2月に、父の隠居により松山城主となりましたが、その期間中に松山入りはわずか3回であったようで、遺骸は江戸三田済海寺で荼毘に付され、遺骨が松山古町大林寺、分骨が高野山に葬られました。
四代目藩主・定頼は、ちょっと、松山との関わりが薄い城主だったのかもしれません。
東野御殿の歴史
松平定頼が松山藩主となった万冶元年(1658)から寛文元年(1661)までの約3年間を費やして、松山城の東約3kmのところにある東野の地に、数寄家と庭園が作られました。
これが東野御殿と呼ばれるものです。
ここは、前の城主の松平定行が、隠居用の別荘として、千宗庵に命じて作らせたものです。
完成したのは寛文元年(1661)ですが、定行は、万冶2年(1659)にはこの地に移り、既にくらしていたそうです。
清楚な竹の茶亭のお茶屋をはじめとし、多数の建造物があり、また、現在も残っている池畔には、清水寺を模した観音堂などが建てられました。
同時期に、この東野御殿の南方向にも、定行の弟の定政が吟松庵をつくり、その2つの間をつなぐ道路に沿って東海道五十三次の宿駅を模した庭園もつくられました。
この時代、東野一帯が風情ある別荘地のようになっていたようです。
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2012/01/09 | コメント/トラックバック(0) |
カテゴリー:四代目・松平定頼
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