三代目・松平定行の歴史
三代目藩主・松平定行の歴史
蒲生忠知が逝去した翌年の寛永12年(1635)7月に、伊勢国(三重県)桑名城主であった、松平定行が、松山城主15万石として封ぜられます。
松平定行の父は、松平定勝といいますが、徳川家康の異父同母弟にあたります。
松平定行は、江戸幕府よりかなり信頼されていたということで、定行の松山就封は、四国地域を制圧する含みを持つものであったようです。
松山城天守閣の改築の歴史
松平定行の行いとして有名なのが、天守閣の改築です。
定行が松山城主となって、4年後の寛永16年(1639)7月に松山城の大改築を始めます。
その内容は、門扉・石積み類の回収に加えて、当時五層の偉観を誇っていた天守閣を、なんと三層に改築するというものでした。
天守閣改築の大きな理由は、その地点が谷を埋め立てた山頂部であるため、建造物の構造上の安全を期するためであったと考えられています。
しかし、この説にもいろいあって、立派すぎる天守閣を、幕府側を気遣い三層へと低くした、という説を唱える方もいるそうです。
しかし、当時、城下の人々は、どのように、この工事をながめていたのでしょうか?
悔しがっていた者も、かなり多かったと思います。
・・・今でも、私は、かなり悔しいのですから・・・。
松平定行が持ち帰った、・・・タルト?の歴史
松山銘菓といえば、「タルト」ですが、このタルトは、松平定行が長崎より持ち帰ったと言われています。
正保元年(1644)1月に定行は、長崎港の異国船取扱いに従事するため、幕府から長崎に「長崎屋敷」を与えられました。
正保4年(1647)6月に黒船2隻が長崎に入港したので、定行は幕府の命により、多数の家臣を伴い長崎に行ったそうです。
その折に、異国のお菓子・・・多分、「カステラ」に出会い、あまりの美味しさに、松山にて作らせたようであります。
タルトの他にも、松山名物として「五色そうめん」がありますが、実はこれも、寛永12年(1635年)、松平定行の松山赴任に従って移り住んだ長門屋市兵衛(松平定行の従者)が、松山でそうめんの商売を始めたのがきっかけとの事です。
なにかと、松山の「食」に良い影響を与えてくれた松平定行ですが、万冶元年(1658)に、家督を息子の定頼に譲って隠居しました。
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2012/01/08 | コメント/トラックバック(1) |
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ひのかぶらも松平定行が伝えたと言う説があります。
万歳師を伊勢より招いて家臣に見せて正月を祝ったことから、伊予万歳の元になったとも言われています。
お城下に万歳師を歩き回らせて見せた訳でもなさそうなのに伊予万歳がどの様に出来たのか、余程の賢い家来が居たのかも?と不思議がられているようです。
文献が残っていないので霧の中だそうです。子供と夏休みの自由研究をしていて聞きました。