松山城在番時代の歴史
蒲生忠知の逝去
蒲生忠知の逝去(せいきょ:他人を敬ってその死をいう)については、寛永11年(1634)8月に参勤交代の途中、京都で病気にかかり、わずか30歳で逝去したという記録がある。
この折、蒲生忠知のに嗣子(しし:家を継ぐ子供)がなかったので、急遽、蒲生家は松山藩主として松山城に在城すること7年8カ月でお家断絶となってしまいました。
松山城在番(松山藩主不在)時代
突然、城主を失った松山城・・・。
やむなく・・・松山城および松山藩は、幕府の命令によって、当時伊予国大洲藩の第2代大洲藩主であった、加藤㤗興(かとうやすおき)および、山崎家治・川勝紀通らの預かりとなりました。
その預かりの期間は、わずかに11ヶ月でしたが、これを、松山城在番時代と呼んでいます。
松山城在番時代に行われた替地と、新しい藩主
松山城在番時代に、伊予大洲藩の飛び地となっていた風早群(むかしの愛媛県北条市あたり)の78か村と、松山藩領の伊予(今の愛媛県伊予市あたり)・浮穴両群のうちの20か村との交換が行われました。
この交換についても、いくつもの逸話がありますが、その一つとして・・・例えば、大洲藩がこの交換で得た伊予市あたりでは、この領地は長く「御替地」とよばれ、親しまれたらしいですが、文化14年(1817)に、大洲藩が布達(行政命令)でこれを「群中」と呼ぶように命じました。
いまでは、この「郡中」が、地名になり、地元には「郡中駅」もあります、地名ひとつにしても歴史を感じます。
なお、この替地は大洲藩側に大きい利益があったといわれていて、寛永13年(1636)8月に幕府によって公許(幕府が正式に許可を与える)されました。
さて、蒲生忠知が逝去した翌年の寛永12年(1635)7月に、新しい松山藩主が決まります。
松平定行です。
タグ
2012/01/06 | コメント/トラックバック(0) |
カテゴリー:二代目と三代目の狭間
トラックバック&コメント
コメントをどうぞ
人気記事
最新情報
- 十三代目・松平定通
- 松山藩の名君、松平定通の行った倹約の励行
- 松山城の歴史
- 松山城の築城までの経緯
- 松山城の歴史
- 松山城の完成、改築そして炎上と復興の歴史(2/2)
- 松山城の歴史
- 松山城の完成、改築そして炎上と復興の歴史(1/2)
- 十六代目・松平定昭
- 十六代目・松平定昭の時代
- 十五代目・松平勝成
- 十五代目・松平勝成の時代
- 十四代目・松平勝善
- 十四代目・松平勝善の時代
- 十三代目・松平定通
- 十三代目・松平定通の時代
- 十二代目・松平貞則
- 十二代目・松平定則の時代
- 十一代目、松平定国
- 十一代目・松平定国の時代