二代目・蒲生忠知の歴史
二代目藩主・蒲生忠知の歴史
加藤嘉明が会津(福島県)に転封(今でいう転勤みたいなもの)した後に、出羽国(山形県)上山(かみのやま)城4万石の城主であった蒲生忠知が次の松山藩主に命じられました。
蒲生忠知の歴史
松山城初代城主、加藤嘉明が会津(福島県)に転封された後、寛永4年(1627)出羽国(山形県)上山(かみのやま)城4万石の城主であった蒲生忠知(1605~1634)が、松山城の二代目の城主となりました。
忠知の祖は、源氏・平氏と並ぶ武門の棟梁として名を上げた藤原秀郷(田原藤太)です。
藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)は別名、田原藤太(たわらのとうた)とも呼ばれていました。
田原藤太は、近江三上山の百足(むかで)退治の伝説で有名ですが、ご存知でしょうか?
蒲生忠知の祖父蒲生氏郷は会津100万石の大名、蒲生忠知の父の秀行は会津60万石を領していました。
秀行死去の後は、兄の忠郷が家を継いでいたのですが病没したので、弟の忠知がその後をうけて、同年2月に松山藩領と近江国(滋賀県)の日野の地と併せ24万石を領有することになりました。
一代で絶えてしまった蒲生松山藩主の歴史
蒲生忠知は、建築中であった松山城二ノ丸を完成させたり、松山に地元では有名な野菜の蕪「ひのかぶら」を繁殖させたり、はたまた松山城の築城で疲弊しきっていた農民の徴発をとりやめたり・・・、いろいろな事を行っていました。
また、この当時の松山の状況を示す書物も残すなどして、松山と深い関わりを築いていたのですが・・・。
残念なことに、寛永11年(1634)年8月、蒲生忠知は参勤交代の途中で、京都で病没したといわれています。
世嗣(跡継ぎ)がなかったので蒲生家は松山に在城すること7年4ヶ月、田原藤太以来700年の名門が松山で断絶しました。
非常に残念な話であります。
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2012/01/05 | コメント/トラックバック(0) |
カテゴリー:二代目・蒲生忠知
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