加藤嘉明の生い立ちの歴史
加藤嘉明の歴史
松山城の創建者である加藤嘉明について思いをめぐらすには、彼の生い立ちから知らなければならないでしょう。
愛知県で誕生した加藤嘉明の歴史
我が国の古城郭のうち、平山城として有名な松山城を創設した加藤嘉明が生まれたのは、今の愛知県西尾市にあたる、三河国幡豆郡永良郷でした。
生まれたのは、永禄6年(1563)ということですから、生まれた後、40年後くらいに松山城の築城を開始する事になります。
ここで、加藤嘉明の史実上の苗字は、加藤でありますが、旧姓は岸三之丞でありました。
当時の記録が、「加藤家譜」などに残っているらしいのですが、それによると、嘉明の父である岸三之丞教明は、曾祖父の広明の時代から領主である松平家(後の徳川氏)譜代の武士であったらしいです。
譜代の武士とは、家の格がある程度高い位の武士であり、言い換えれば、徳川氏により末代まで格が保証されている武士・・・みたいな感じらしいです。
一向宗徒を助けた加藤嘉明の父
しかし、嘉明の父である教明は、嘉明が生まれた翌年の永禄7年(1564)に、徳川氏に反抗した一向宗徒の一揆にくみしたため、郷里を捨てて尾張国へ逃避したぞうであります。
一向一揆(いっこういっき)は、戦国時代に浄土真宗(一向宗)本願寺教団の信徒たちが起こした一揆の総称らしいのですが、何故、教明が一揆に賛同したかは勉強不足でわかりません。
また、一揆というのは、今の言い方で言えば・・・(暴力を伴う場合もある)デモ行進みたいなものでしょうか・・・。
いずれにしても、そのせいで、父の教明はもとより、子供である嘉明も、三河国(今の愛知県の中央部あたり)から、尾張国(愛知県の北部の方)へ逃げなければいけなくなったそうであります。
孤児となった加藤嘉明の歴史
この時期、嘉明は幼少であったのだけれども、間もなく孤児となり、諸国を放浪したそうであります。
そして、放浪のあと、近江国長浜(今の滋賀県長浜市あたり)の馬喰(ばくろう)の下僕(かぼく)となって苦難の生活をしていたようであります。
馬喰(ばくろう)の下僕(かぼく)を、分かりやすく言うと、牛馬の売買や斡旋をする人の召使いみたい・・・な感じです。
その後、多分、かなり苦しい生活していたのでしょうけれども・・・15歳の頃よりは、嘉明の剛勇(強くいさましいこと)ぶりが人目をひく所になってきたようであります。
この頃より、嘉明は、松山城築城へ向かっての階段を登り始めます。
嘉明が15歳の頃と言えば、天正 6年(1578)頃の事であります。
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2011/12/13 | コメント/トラックバック(0) |
カテゴリー:歴史初代・加藤嘉明
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