二十歳までの加藤嘉明の歴史

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13歳よりの加藤嘉明の歴史

秀吉の命により、加藤景泰の養子として名を改め、加藤嘉明と名を改めた岸三之丞孫六、茂勝は、天正3年(1575年)13歳の時より、松山城主、加藤嘉明へ向かっての階段を上り始めます。

 

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加藤嘉明の初陣の歴史

加藤義明は、13歳の時より秀吉の養子である秀勝の小姓(身の回りの雑用を務める役)を務めていましたが、天正6年(1578年)三月より、秀吉軍として「三木城攻め」で初陣をしました。

加藤義明、の初陣は16歳の時でした。

この戦の折、加藤義明は、いの一番に敵陣に乗り込んだり、秀吉の陣羽織を翌日の出陣に間に合うように乾かしたりと・・・2年間に渡る戦いの間、秀吉の意にかなう活躍をします。

その結果、天正8年(1580年)に戦いに勝った後、加藤義明はその軍功により所領合わせて450石を授けられました。

加藤義明、18歳の時です。

 

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戦い続きの加藤嘉明の歴史

その後も、加藤嘉明は、秀吉軍にて戦い続けます。

「三木城攻め」の後は、「因州征伐」です。

天正9年(1581年)6月より、毛利方の吉川家が死守する鳥取城を討つために秀吉と共に戦い、戦に勝利します。

そして、休む間もなく、今度は天正10年(1582年)3月より、「備中高松城攻め」(岡山県岡山市)に秀吉と共に参戦します。

この、「備中高松城攻め」の最中に、有名な明智光秀の乱「本能寺の変」があったのですが、「備中高松城攻め」を秀吉軍の勝利の形で終え、すぐさま、「山崎の合戦」で、明智光秀軍にも勝利します。

この戦いの時期はすさまじく、「備中高松城攻め」の終焉である開城が6月4日、「山崎の合戦」が6月13日というめまぐるしさであります。

これらの戦いでも、加藤嘉明は戦いを勝利に導く役割を果たし、その軍功により200石を加増され650石を領することになりました。

この時、加藤嘉明は20歳の時でした。

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