松山城の完成、改築そして炎上と復興の歴史(1/2)
松山城の完成
慶長7年(1602年)に加藤嘉明により築城を始めた松山城ですが、なんと完成するまでに約25年を要する大工事でした。完成したのは、寛永4年(1627年)です。その間、加藤嘉明は心血を注いで築城を行います。しかし、加藤嘉明は、その落成式典をする年の2月、式典の直前に出羽国(今の山形県)に転封(てんぽう)されたのです。
伊予松山藩は20万石、出羽国の会津藩は40万石、確かに倍に加増したため、今で言えば、栄転のようなものかもしれませんが、加藤嘉明の気持ちはいかがなものだったのでしょうか。実際には自分が築き上げた松山城と完成直前に引き離され、温暖な松山から、寒冷地である会津へ行かされたのは、本意ではなかったという話が主流です。
この話には、裏話もあって、それは、当時、加藤嘉明と仲の悪かった藤堂高虎が、自分に会津藩へとの話が合ったのを上手に断って加藤嘉明に押し付けたという話です。すでに65歳になっていた加藤嘉明にとっては、つらい国替(くにがえ)だったと思います。
このように、松山城の完成時には、城主が突然交代するという一波乱があったのですが、松山城は寛永4年(1627年)に無事完成したのでした。
松山城天守閣の改築
松山城は、松山藩主1代目の加藤嘉明が築城し、落成式は松山藩主2代目の蒲生忠知が行いました。その後、蒲生忠知が急死して、松山藩主3代目には、徳川家の本家筋に近い、松平定行がなります。すると、松平定行が行ったのが、当時五層の偉観を誇っていた天守閣を、なんと三層に改築するということでした。
本当にもったいない話です、説明によれば、天守閣のあるところが、丁度、谷を埋め立てたところなので、地盤が弱かったから・・・という事らしいのですが、怪しいものです。一説には、松平定行が、五層の天守閣があまりにも立派すぎるので、徳川家に気を使って階数を減らしたという話があります。
もし、今、五層の天守閣が残っていればと思うと、残念でなりません。さぞやかっこよかったでしょうね~。この三層に変わった天守閣が完成したのが正保2年(1645年)です。松山城の落成式後、18年後の事です。短い五層の天守閣時代でした。
松山城天守閣の焼失
そのように三層に変わった天守閣ですが、天明4年(1784年)の、しかも元旦の真夜中に、大天守・大書院に落雷があり、本丸を焼失してしまいます。松山城の落成後、157年後の事です。松山藩11代目藩主、松平定国の時でした。その時の松山城下の落胆はかなりのものであったろうと思います。
定国は、すぐに急使を江戸に送り、天守閣が焼失したことを幕府に報告しました。そして、焼失した城郭復興の計画も幕府請願し、同年6月29日には、幕府より許可を得ました。この時の再建の方針は、もとの形態に復興することのようでした。しかし、その後、松山藩は天明の大飢饉などもあり、財政が窮地に陥ります。
その頃よりの、度重なる凶作、それを埋めるための莫大な借入金の利子支払いに加えて、親藩として日光廟の修理への上納金3万両などが、長い間松山藩の肩にのしかかってきたのでした。そのために、城郭復興はどんどん後回しにされます。そしてなかなか再建されなかったのでした。
この後の、松山城の復興の歴史は、次回(来週)の記事でお伝えします。ではでは・・・
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2012/06/30 | コメント/トラックバック(1) |
カテゴリー:松山城の歴史
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