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松山城の天守閣に落雷

松山城本丸本壇の写真です。クリックすると拡大します。

松山城の天守閣に落雷の歴史

松山城は、過去に一度、天守閣を火事で失ったことがあります。

この、火事の時にも、あるエピソードが残っています。

 

松山城大天守の写真です。クリックすると拡大します。

「人」を大事にしていた、松山藩の歴史、その1

松山城は、天明4年(1784)の元旦真夜中に、大天守・大書院に落雷があり、本丸を焼失してしまった事があります。

丁度、この火事の折、城主の松平定国は、柳井町の法竜寺に避難をしたそうですが、小姓の野沢才次郎という者が、城に残る宝物を取りにゆきたいと藩主である定国に申し出たそうであります。

すると、定国は、「その方に勝る宝物はないぞ!」と言い、野沢才次郎が城に戻るのを許さなかったそうであります。

幸いにも、松山城の宝物は、ほかの者たちによって、持ち帰られていたそうです。

 

松山城本丸本壇天神櫓の写真です。クリックすると拡大します。

「人」を大事にしていた、松山藩の歴史、その2

また、その火事の折、火薬を保管する煙硝櫓への類焼を恐れた藩士たちが屋根に登って消火作業をしていましたが、それを見た藩士の小出権之丞は、「人こそ国中第一の宝である。その宝を危ない所において火を防ぐ道理はない。早く下りよ!」と言って、一同を屋根より下したそうであります。

このような言い伝えを聞くと、その当時の松山藩が、「人」を大事にしていたという事が良く分かります。

 

松山城本丸本壇の写真です。クリックすると拡大します。

財政難により滞った天守再建

松平定国は、火事の後、直ちに急使を江戸に送って、火事があった事を伝え、その年の6月には本丸を元の姿に復興する計画の許可を受け、また、その年の参勤の時期を9月に延期する旨の了解も得たそうであります。

尚、松平家は譜代大名であったため、参勤交代の時期は、6月か8月であったはずとの事です。

しかし、せっかく、城郭復興の許しを得たにも関わらず、この頃より松山藩は、封建制度の動揺や凶作の連続などにより財政難を迎えることになり、厳重な質素倹約を行う時代に入ってしまいました。

かなり厳しい質素倹約を行ったそうで、町人たちには松山藩の借財分の肩代わり・・・、町人豪農層へは、たびたびの御用米の上納強制などを行わせたそうです。

しかし、財政再建にも力を尽くし、殖産興業の奨励や、文武の奨励などなど・・・努力を続けるうちに松山藩は財政の危機を脱したそうです。

そうして、本丸焼失後、37年後の文政3年(1820)にしてやっと、復興計画を練り、松山城郭の復興工事に着手したそうです、・・・ところが、今度は、また藩主の逝去により途中で中止。

そして、また何年かしての工事再開・・・。

このような努力を何度も繰り返したそうであります。

 

松山城本丸本壇中庭の写真です。クリックすると拡大します。

天守再建に要した数十年の歴史

そのようなことを繰り返しながらも、翌嘉永元年(1848)2月にやっと設計が終わり、その後は毎日約600名の農民などを挑発したりしながら、翌嘉永5年(1852)12月に城郭復興が完成し、落成式典は翌々年の安政元年(1854)2月に盛大に催されたそうであります。

天明4年(1784)の天守閣焼失からこの時まで、実に71年が経過していたのです。

しかし、このように多年に渡る苦心と努力によって完成をみた松山城は、我が国の城郭の内、聯立(れんりつ)式建築のもっとも完備した形式と偉観を持つことになったそうです。

ここで、聯立(れんりつ)式の城郭とは、天守閣が並列する2基以上の城櫓によって形成されているもので、普通に中庭の備えがあるものをいうそうです。

松山城では、天守閣を中心に、多門北隅櫓・南隅櫓およびこれに続いて小天守閣があり、さらに東北に天神櫓を、南東に一ノ門内櫓を配置しています。





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