松山城の築城までの経緯
加藤嘉明と伊予国との関係が始まるまで
加藤嘉明は、武将派の大名として戦績を上げ、松山城の築城を開始するまで、一気に階段を駆け上がりました。現在では想像つかないのですが、その若さと、出世の速さを比べてみると、意外に年齢が若いのにびっくりします。
では、ちょっと、加藤嘉明の松山城築城前からの出世のスピードを見てみましょう。まず、大きな出世の始まりは、秀吉の配下での文禄の役の戦功によるものでした。これは、秀吉が朝鮮へ出兵した文禄元年(1592年)の出来事ですが、嘉明が29歳の時の出来事です。
この戦いの戦功により、嘉明は、伊予国正木(松前)城主6万石に封ぜられたのでした。そして、文禄4年(1595年)32歳の時に、嘉明は家臣をつれて、淡路国志智城から伊予国正木(松前)城に入城しました。これが、伊予国と嘉明との関係の始まりでした。
松山城築城までの経緯
嘉明は、慶長2年(1597年)には、再度、慶長の役いより、朝鮮に出兵します。この戦においても、嘉明は、加藤清正を救出するなどして戦績を上げます。そして、翌年慶長3年(1598年)には所領を10万石まで加増されました。嘉明が35歳の時です。そして、この年に秀吉が病気のために伏見城で逝去したのです。
このすぐあと、嘉明が一気に大出世をしたのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いです。この戦いで、嘉明は徳川家康側の大名として戦績を上げ、その戦績により一気に所領を20万石に加増されたのでした。嘉明が、37歳の時です。
そして、翌年の慶長6年(1601年)に義明は、家康に勝山城(松山城)の築城を具申して了解を得たのでした。嘉明にとっては、この29歳~37歳の間は、いかにも出世街道まっしぐらという感じであったことでしょう。このような流れがあって、慶長7年(1602年)に松山城の築城が始まったのでした。
松山城築城開始前の準備
嘉明は勝山に松山城を築城するのを決めたのですが、その計画はお城の築城ばかりではありませんでした。松山平野の治水や水運を含む壮大な計画を持っていたとも伝えられています。このうち、治水については、実際に行われました。
松山平野の治水として行われたのは、今の湯山川(今の石手川)の改修工事でした。これは、湯山川の流れを変えて、伊予川(今の重信川)へ合流させるという大工事でした。これは、城下町とその付近の平野を洪水の氾濫から守るためのものでした。
改修前の湯山川は、現在の流路と異なり、岩堰から湯渡あたりを経て持田のほぼ中央を通り、今の2番町から八股に出て、三番町の妙清寺辺を通過し、吉田浜付近で海に注いでいたのでした。この流れを、現在の場所で重信川に合流するように改修したのです。
この湯山川の改修工事を行ったのが、嘉明の家臣の足立重信でした。一説によれば、この功績により、合流先である、いままで伊予川とよばれていた川を重信川と呼ぶようになったと言われています。
嘉明の果たせなかった壮大な計画
嘉明は、松山城がほぼ完成し、さあ落成式を行うという直前で、会津に転封を命ぜられ、一躍40万石の大名になりましたが、嘉明は、石手川の改修以外にも壮大な計画を持っていたといわれています。それは、松山平野の水運にかかわるものでした。
それは、堀江から勝山(松山城)の麓まで溝渠を作って、船運の便にしようとした事でした。松山平野に運河を作ろうという計画です。もし、完成していたなら、今の松山平野はどのような趣になっていたことでしょうか。考えるとわくわくします。
つくづく、嘉明は、城づくり・城下町作りが好きだったのではないでしょうか。
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2012/08/19 | コメント/トラックバック(0) |
カテゴリー:松山城の歴史
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