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松山城天守紋章は三つ葉葵

三つ葉葵の写真です。

松山城の天守の紋章は、「三つ葉葵」です。

松山城の天守の紋章は、江戸幕府の将軍であった徳川家とゆかりのある「三つ葉葵」です。
天守閣で観光客の皆さんの話を聞いていると、何故、松山なのに「三つ葉葵」なのか不思議がっている方が、たくさんいらっしゃいます。

 

「三つ葉葵」は、どこから。

松山城の築城に着手したのは、西国の大名であった加藤嘉明公ですが、広大な平山城の完成直前に会津藩へ転封となります。
また、次に藩主となった蒲生忠知公が二之丸などを完成させましたが、跡継ぎがいなかったため在藩7年で断絶してしまいます。

二人とも、徳川家には、縁もゆかりもないとおもわれます。

その後、1635年に松平定行公が藩主となり、それ以降、明治維新までの235年間に渡り松山は松平家により統治されてきました。
実は、この松平家が徳川家との関係が深い家柄であったのです。

 

城内展示物、長持の写真です。クリックすると拡大します。

松平家と徳川家の関係

松平家の旧姓は、久松です。
この久松松平家は、徳川家康の徳川家よりも格式の高い家柄であったと言われています。

久松家は、室町時代に菅原道定が尾張に下り久松性を名乗ったのが始まりであり、尾張で久松家として営んでいましたが、徳川家と久松家は家康と定勝の時代に、母を同じくするという関係になりました。

伝通院於大の方は、三河国岡崎城主、徳川広忠に嫁いで家康を産み、その後、家康が3歳の時に、久松俊勝と再婚して、定勝を生んだため、定勝と家康は、異父兄弟になるのです。

久松家は、家康が天下人になったため、家康の意向もあってか、松平を名乗りました。

どうも、この時に、「三つ葉葵」を引き継いだようです。

 

松平定行公が行った松山城の改修工事

蒲生忠知の後を引き継いで藩主となった松平定行公は、松山城の改修工事に取り組みました。
当時まで五層あった天守閣を三層に改築したのです。

これは、地山が弱かったためと言われていますが、天守閣の他にも、門塀や、石垣などを含め、3年がかりで改修工事を行ったようです。

この時、天守の紋章も、江戸幕府の将軍であった徳川家とゆかりのある「三つ葉葵」に変えたのだと思われているそうです。

こうして、「三つ葉葵」の紋章の入った三層の天守閣は、寛永19年(1642)頃に完成したようです。

この時期といえば、弘化3年(1846)の5月が、アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルがコロンバス号、ビンセンス号の2隻の軍艦を率いて浦賀に来航した年です。

わが国最後の完全な城郭建築である天守は、黒船来航頃に落成したことになります。





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