松山城が築造されたきっかけ
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、加藤嘉明(よしあき)は徳川軍に属し、その功績として伊予国(いよのくに)のうちの半分を与えられました。
伊予国の時代
伊予国は、現在の愛媛県とほぼ同じ地域です。
そのころ、愛媛県の松山付近には、豊臣秀吉が四国平定を行った天正13年(1585年)頃まで、この地域を収めていた河野氏が築いた湯築城(現在の道後公園)と、この地域の防衛の要所であった正木城(現在の松前町)の、2つの城がありました。
加藤嘉明は、まず、松前城(正木城)に入り、この地域の統治をしようとしましたが、二十万石の領地としては、松前城や湯築城では手狭すぎました。
そこで、すぐに徳川家に築城の許しを伺ったそうです。
松山城の候補地
ここで、伝説によると、当時の徳川家は、各地の大名に築城の予定地を申請させていたそうです。
そして、わざわざ、第三候補地まで申請させて、第二候補地を認めることが多かったそうです。
そこで、加藤嘉明は、第一候補を「天山」、第二候補を「勝山」、第三候補を「御幸寺山」として申請し、本命の「勝山」(現在の松山城)を思惑通り射止めたそうです。
こうして、道後平野の中心にある標高132mの「勝山」の山頂に「松山城」を築く事が決定されたそうです。
これは、あくまでも伝説なのですが、そのぐらい念入りに候補地を選んだという事なのでしょう。
しかし、伝説は伝説としても、現在も、第一候補の「天山」と第三候補の「御幸寺山」は、松山城の天守閣から見える場所にあります。
もし、「松山城」が、どちらかの山の上にあったら・・・、姿を想像すると、何か変な感じがします。
↓「天山」の写真です。かなり遠いですが、写真ど真ん中の小高い丘あたりが天山です。

松山城の場所と、松山城の築城候補地だった、第一候補の「天山」と第三候補の「御幸寺山」の場所の地図


